オタク史の難しさ

311後のオタクがどうなるか、というtwitterでの話で「結局論者は自分の周りの話しかしていない」みたいななツイートがあって、それについてちょっと思った事。
twitterにつぶやいたネタの加筆修正。

オタク史というのはいまのところ「客観的に検証し難い個人史の集積」でしかないから、先の事を語ろうとしても半径10メートルの範囲内の話みたいになるのはしょうがない。

じゃあなぜそうなるかと言うとオタク史には「通史」「正史」が存在しないからだ。

何年にこういうアニメが放映された、何年にこういうマンガがあったというコンテンツ史やブームを繋いだ社会史としての正史と呼ぶべきものはある。

だがオタク活動はコンテンツの消費によって成り立っている以上、そこにいわば裏面史として、検証が難しい個人活動の歴史が積み重なっている。

例えば現在の同人活動アーキタイプとしての60年代のSFファンダム、ラノベの始祖としてのジュブナイル小説、深夜放送のいわゆるハガキ職人文化、80年代の極初期のエロパロこれらはオタク史と抜きがたい関連があるはずなんだけど全容を検証可能な形で残っていない。 「俺が見聞した」という「証言」以外によるすべがない。

90年代以降でもパソコン通信の会議室やチャットのログや最初期のhtmlベースのファンサイトや掲示板などの黎明期のネット上の記録、さらに現れては消える美少女ゲームブランド、特にPC9801時代のそれも検証不可能なオタク史物件に入るかもしれない。

こういった物を積み上げなければ現在のオタクシーンに繋がる「正史」は構築できない。
そしてそれは多分誰もやろうとしない。労力に比してのリターンが少なすぎるし、何よりもオタクというのが、今現在目の前にあるコンテンツを消費する事に主眼を置き、過去を振り返らない傾向があるからだ。

あるいは個人史ベースでも証言を積み重ねる事によっての全体史構築は可能かもしれないが、たぶん商業ベースでの需要はなかろう。

オタク正史の構築はおそらく損得を度外視できる「オタク史オタク」の出現を待つしかないのだ。

それが望み薄である以上、オタクの過去・未来に関する話は個人史によって立つしかない。